2012年9月27日木曜日

2012年8月10日 震災後立ち上がった小さな旅館


 荷物をまとめて、私はカウンターでチェックアウトをしていた。
「九州からここまでどれくらいかかりましたか?」
 とは、旅館の店主である。
 この店主は齢八十になる大ベテランだ。
 あの大地震がある直前まで、「そろそろ店を閉めようか」と思っていたらしい。
 皆で食事をして、皆で風呂に入るのは今の若い人には受けない(私は例外というべきか)。自分も後何年生きられるかわからない。建物も汚れてきたのでもう辞めよう。
 従業員とそんな話を進めていたあの日、いきなり大きな地震が起きた。
 一般的に知られているのは三月十一日の地震だが、いわきではその一ヶ月後の四月十一日にも大きな地震が起きている。
 いわき市内の背の高いホテルは壊滅状態。とても経営が出来る状態ではなかった。
 ほどなくして、県外からボランティア団体がやってきた。
 地震で大ダメージを受けなかったのは、最新の建物で耐震強度のしっかりした建物と背の低い、昔ながらの建物のみ。
 昨日私が小休憩をした文化交流会館も避難した人の宿泊所となったようだ。
 ボランティア団体を宿泊させる場所が圧倒的に少なくなったいわき市内で、立ち上がったのは小さな旅館だった。
 この店主も旅館の経営を継続、出来る限りのボランティア団体を受け入れ、風呂と食事を毎日用意した。
「おかげで忙しくなりました。まだ海沿いの宿泊施設は復旧してないので、お客さんは市内にお泊まりになるんです。できればお客さん(私のこと)を車で案内したかったのですが、今日もすぐ団体さんがいらっしゃるので」
 そうやって話す店主さんはどこか頼もしかった。八十歳には見えない凛とした佇まい。
「今日はどちらに?」
「決めておりません。海沿いに行ったらいいと女将さんに言われました」
「ええ、海沿いがいいでしょう。一体どんな被害だったのか、見て来るべきです」
 私は挨拶をして、旅館を後にした。
 まだ、空気の中には朝の香りが残っていた。
 私は目の前の文化交流会館になぜかお辞儀をした。

2012年8月10日 避難生活とペット問題


 布団の中で、なぜか嫌な汗をかいた。
 手足がものすごく冷たくなる。
 私が入院する前を思い出した。パニック発作が起きる直前は、決まってこういう症状が現れるのだ。
 ミシッ!
 建物が軋む音がして、床が揺れた。
 窓もびりびりびりという音とともに震えている。
 幸い、揺れはすぐに治まった。
 私はテレビをつけた。部屋の外から、女将さん達の話し声が聞こえる。
 テレビはオリンピックのサッカーの試合を放送していた。その上に現れる震度を知らせるテロップ。
 初めてのいわきの朝を、私は余震で目を覚ましたのだ。


 朝食。
 ご飯がおいしくて三杯もおかわりをした。
 メニューは、白飯、みそ汁、焼きシャケ、玉子焼き、海苔、つけもの、きんぴらごぼう。
 労働者の朝は早い。私が食事を始める頃には、作業服を着たおじさんらが白飯を口の中にかき込み、仕事の話をしていた。
 彼らはどんな仕事をしているのだろう。
「おはようございます」
 女将さんに後ろから声をかけられたので、私はお辞儀をして挨拶をした。
 作業服を着たおじさんらは食事を終え、部屋に戻った。ほどなくして、チェックアウトを済ませるやりとりが聞こえてきた。
 私は優雅にご飯を食べ続けている。
 おそらく昨日より歩く時間は長いだろう。お昼ご飯を食べられるのかどうか怪しい。腹の中に入れておかないと、暑さでぶっ倒れるかもしれない。
 女将さんは私のために冷たい水を入れてくれた。
「九州も、洪水で大変だったんでしょう?」
 頭の中に八女のことが浮かんだ。驚いたことにいわき市でもニュースが流れていたようだ。
「屋根まで水が浸かったって聞いたけど」
「ええ、大変だったみたいです」
「災害は、ほんとに怖いわね」
 女将さんは、知り合いから聞いたという警戒禁止区域の中の話を教えてくれた。
 警戒禁止区域の中では、草木は伸び放題で、植物の身長は家の屋根まであるそうだ。
 その知り合いの方は、元々はいわき市の人間ではないという。原発周辺の町に暮らしていたが、原発事故後いわき市で避難生活を強いられているそうだ。
 その人が警戒禁止区域の中を車で走ると、犬の群れが近寄って来るらしい。元々はペットとして飼われていた犬が、野生化したものだ。
 その姿を見て、同情してしまい、車を停めて食べ物をあげようとするが、犬は数メートル離れたところからじっと見て来るだけ。
 無人の町での生活になれた犬は、人間を恐れるようになっている。食べ物が欲しくて近寄っては来るが、以前のように人間に甘えることはない。
 避難生活をする上で、ペット問題は重大だ。
 避難した先が、以前のように一軒家とは限らない。借り上げアパートはペット禁止のところが多い。仕事も新たに探さなくてはならず、以前とは生活スタイルががらりと変わるのである。
 ペットを親戚や知り合いに預ける人もいれば、警戒禁止区域の中に仕方なく取り残して来た人もいるのが現状だ。
 女将さんも知り合いの犬を預かっている。その知り合いの方は、家族を別の県に住む親戚に預け、自分はいわき市で仕事をしているようである。
 犬は最初女将さんに慣れず、食事をしなかったそうだ。その結果、犬はガリガリにやせ細ってしまった。
 預かっている以上女将さんにも責任がある。根気よく接した結果、やっと食事をするようになり、体重も以前と同じくらい回復した。
 警戒禁止区域が解除されて、飼い主の子どもに犬を返してあげるのが夢だと、女将さんは語る。
 私は残りの玉子焼きとご飯を食べ終えた。
「九州からこんなところまで来た人は初めて見たよ。すぐ旅立つの?」
「部屋で準備をしたら、出ようかと」
「自分の目で、確かめてくださいね」
 私は礼をして、食堂を後にした。

2012年9月19日水曜日

2012年8月9日 「真実を見てきて」と語る女将さん


 いわき駅に戻った。
 いわき市内は普通の町だった。
 駅では女子高生がベンチに座って話し込んでいるし、学生のカップルがバスを待っている。
 カフェでは、年配の女性がコーヒーを飲みながらおしゃべりをしていた。
 私のような大きなバックパックを背負った変わり者はいなかった。夕方だから、ちらほらサラリーマンらしき人達も道を歩き始めている。
 あまりにも日常の風景に、私は一人、感嘆の声を上げていた。
「何を失礼な!」と地元の人は思うかもしれない。
 しかし、申し訳ないが、いわき市がここまで活気のある町だとは思っていなかったのだ。
 いわきは無人に近いとか、皆放射性物質に怯えて殺伐しているというのが私達の描いていたイメージだ。
 海外のウェブサイトを覗けばさらにびっくりする。日本のスーパーでは皆ガイガーカウンターを取り出し、陳列されている果物や野菜を測定していると平気で書かれているからだ。
 笑ってしまう。日本全国、どこのスーパーに行ってもそんな人はいやしない。
 行ってみないとわからないことはたくさんあるのだ。
 行ってみたらそうでもないこともたくさんある。
 いわき市の様子もその内の一つ。駅の周りにはフラガール甲子園の旗が連なっている。昨日まで町中がお祭りだったらしく、まだ片付けられてない飾りがたくさんあった。
 文化交流会館なる建物があった。立派な建物だった。福岡市博物館を連想させる建物だ。旅館まで後少しだったが、この建物の木陰で少し休んだ。
 一日中歩いて、身体が汗臭い。旅館に入った時迷惑じゃないだろうか。
 時折吹く風は、九州の風よりちょっと乾燥していた。
 私はバックパックを再び背負い、歩き始めた。
 旅館に着くと、気の良い親父さんが迎えてくれた。建物内の説明を簡単に受け、私は鍵を受け取り部屋に駆け込んだ。
 バックパックを畳の上に降ろす。右肩がもう動かない。
 私は着替えとバスタオルを持って、風呂場に向かった。
 浴場は誰もいなかった。
 全身の泥を落として、湯船につかる。深いため息が出た。
 首までお湯につけて、肩をゆっくり回した。身体を痛めることは致命的だ。明日も歩き回らなければならない。
 湯船に三十分以上浸かっていたと思う。
 途中入ってきたおじさんに挨拶をして、私は風呂を出た。
 食事は食堂で、皆集まって食べる。最近の若い人にはこういうシステムは不人気とかで、女将さんに随分歓迎された。
 夕飯は豪勢だった。
 白飯、みそ汁、鰹のたたき、エビの丸焼き、とろろ、鶏肉の蒸し物、ポテトサラダ。
 ご飯もみそ汁もおかわり自由だ。
 私は子どものように白飯をかき込んだ。腹が減って腹が減って目が回りそうだったのだ。
「彼氏、子どもいらないの?」
 福島に行けば、放射性物質で精巣がぶち壊れ、子どもを作れなくなると本気で信じている人から、私の彼女はそう言われた。私が福岡を出る前の話。
 私は鰹のたたきも、鶏肉も、エビも何でもかんでも旨い旨いと言って口に入れた。福岡に帰ったら旨い物を一杯食べたと自慢してやるんだ。
 なんとなく、そんな気持ちになった。
 私は女将さんに「おかわり!」と言って茶碗を差し出した。
「そうやって美味しそうに食べてもらえると、作った甲斐があるよ」
 女将さんは一杯目よりご飯を少し増やしてくれた。
 ここの旅館は、労働者が利用することが多いらしい。
 皆楽しそうに仕事の話をしていた。
 ビールを飲んでいるおじさんらが話しかけて来た。
 九州から来たんだと言うと「いいなあ。俺なんか、母ちゃん(奥さんのこと)が旅なんて許してくれねえよ」とおじさんがぼやき、食堂の中は笑いに包まれた。
 友人と話すのとは違う楽しみがあった。地元の人と話すのは、旅の醍醐味の一つだと私は思う。
 私がごちそうさまをして、重たい腹を抱えて食堂を出ると、女将さんが声をかけてきた。
「明日はいわきを出るの?」
「いえいえ、いわきをもう少し見て回りますよ」
「いわきの海岸沿いは見た?」
「いわきはまだです。今日は広野を見てきました」
「そう」
 それから女将さんは地震の話を始めた。
「あの時はね、皆、運で死んでしまったの」
「運?」
「誰が悪いことをしたとか、良いことをしたとかではなくて、運が良い悪いで生き死にが決まってしまったの。海沿いのね、宿にいたお客さんは温泉に入ったまま津波に流されたのよ。今でも行方はわかってない。観光名所なんていいから、明日は津波の跡を見てきなさいよ。真実を自分の目で見てきて」
 私は女将さんの話を聞いて、涙を流しそうになった。女将さんの目にも涙が浮かんでいたからだ。女将さんの表情は、悔しいようでも哀しいようでもあった。
 私は部屋でビールを一缶飲み、布団に潜った。
 真実という言葉が頭の中に、しこりのように残っていた。

2012年9月10日月曜日

2012年8月9日 広野町④








 タクシーの運転手さんと話し終えて、駅に戻ってぼけーっとしていると駅員さんに声をかけられた。
「どこから来たの?」という問いに、私は「九州から」と答えた。
「海岸は歩いた?」
 海岸?いいや、そこには行っていない。ずいぶん遠くにある印象だから行くのは断念したのだ。
「わざわざここまで来たんなら。海岸沿い歩いてきなさいよ」
 私は駅の窓から海の方を眺めた。
 草原が広がっている。特に瓦礫があるようには見えない。
「津波の被害にあった場所だから。自分の目で見てきなさい」
 驚いた。被災者は被災した場所を隠したがるのだと思っていたから、わざわざ教えてもらえるとは思わなかった。 
 私はリュックを背負い、駅員さんに言われた通りの道を歩いた。
 広野町で働いている人達は皆優しいイメージがある。地元の人に限らない。水道管工事をしている人達も私に大きな声で挨拶してきた。
 海岸には、若い私の足だったら十五分ほどで着くそうだ。
 楢葉町とは反対方向だった。
 こっち側は、あまり除染業者のトラックが走っていない。
 時刻は夕方。小さい男の子とおばあちゃんが家の前で話していた。田舎にある平和な風景だった。
 駅員さんが言っていた踏切があった。ここを渡って海に行くそうだ。
 踏切を渡ると、潮の香りと草の香りがした。岸を叩く波の音がここまで聞こえる。
 私の目の前には一面の草原が広がっている。いくら田舎でも殺風景すぎやしないだろうか。
 駅員さんの言った、津波の被害の跡とはどこだろうか。
 私はニュースで散々報じられた、船が陸に上がった光景や窓を刳り貫かれた建物を思い浮かべた。
 突然、放送が入った。
 穏やかな感じのゆっくりした口調の放送だが、内容は今日一日の放射線量の測定結果。
 役所の人が毎日測定して、こうやって町民に報告しているのだろう。
 マイクロシーベルトという単語が空にエコーしている。
 不気味だった。
 私はさっきの男の子とおばあちゃんを思い出した。
 あの人達は、こうやって毎日放射線量を気にして生活しているのだ。
 私は草原の間から、白いコンクリートが覗いているのを発見した。白いコンクリートは地面に四角を描いている。
 見ると、私の後ろにも前にも右にも左にもコンクリートがあった。
 歩いても、歩いても、コンクリートが尽きることはなかった。
 私はそれらが何なのか察した。これは、全部家の土台なのだ。
 家は津波で全部流され、家を支えていた土台だけがオセロ盤のように地面に残されているのだ。
 明らかにここに、人の住んでいた場所があった。それが今では単なる平坦な土地になって、私は気づかずにそこを歩いていた。
 私は白骨遺体の山を歩いているような気持ちになって目から涙が溢れてきた。怖いような、申し訳ないような、哀しいような複雑な気持ちだった。
 元々涙もろいから、涙を止めることができなかった。
 こんなよそ者の私が泣いたってなんにもならないことはわかっている。
 でも涙がこみ上げてきたのだ。
 海岸に着くと、即席で作られた防波堤と瓦礫があった。
 波がテトラポッドを乗り越え、砂浜を叩いた。
 通常時でも波がこんなに高いのだ。震災のときはどれほど高かったのだろう。
 もう一度高い波がテトラポッドを超えた。
 波が私を怒鳴りつけているようで、怖くなった。


踏切を渡ると、一面に広がる草原が目に入る。


荒れた土地に新たに道路を造っている。
再生するためには、一から造り直すしかない。


建設途中の道路。
この先はまだ繋がっていない。





一見草原に見える土地も、全て家があったところ。




地震で地盤が下がっているため、波が必然的に高くなる。
海岸沿いはまだ瓦礫が残っており、即席の防波堤が造られていた。


海を見ていて、ふと振り向けば津波の傷跡が。



広野町の海岸から見た火力発電所。
巨人のような威圧感は微塵もない。
波の方が背が高く見えた。



一日の放射線量が放送で知らされる。
津波で流された土地に、マイクロシーベルトという言葉がエコーした。