2012年11月8日木曜日

あとがき


 福島で撮影に使ったフィルムを一本丸々おじゃんにしてしまった。
 使っていたカメラはContax RTSⅡというやつで、もう何回も使っていたのに、思わぬミスでフィルムをダメにしてしまったのだ。
 もちろんその日一日私の機嫌は悪かった。楢葉町内で撮影した写真が全て消えてしまったのだから。
 だが、ある意味でこれは何かのご縁だと思った。
 再び、福島に行けということなのだろう。
 そんなわけで、私はお金に余裕ができたら再び福島へ行こうと思っている。
 次は出来たら観光がいい。


 当初このブログは二日に一回の割合で更新する予定だったが、私生活で思わぬ出来事が重なり、更新が遅れてしまった。
 ただ、この記事を書いている時と私が訪れた時とで福島の状況にあまり差がないことが非常に残念である。
 本当は楢葉町へ人の出入りが増え、富岡町の警戒禁止区域が解除されていれば良かったのだが、そうはいかないようだ。
 それでも、フラガール甲子園が開かれ、久之浜地区で花火の打ち上げがあり、避難生活者どうしで様々な交流が開かれ、着々と復興は進んでいる。
「絆なんてないんだよ」
 いわきで避難生活を余儀なくされている女性に、こう言われたことが頭から離れない。
「絆なんて言葉をスローガンにしてるでしょ。県外で仕事探そうとしてごらん。福島から来ましたっていうだけで断られる。子どもなんていじめにあっちゃうの。だから、福島から来ましたって言わない人もいるわ」
 福島を差別し、拒否しているのはまぎれもない福島以外の人達。
 復興に無関心なのは政治家でも大手マスコミでもなく被災地以外に住む我々なのではないだろうか。
 ブログの最初に述べている通り、読者の皆様にはぜひ福島に足を運んでもらいたい。
 このブログを読んで、「ああ、福島ってこういう所ね」とか「ああ、瓦礫受け入れってこういう理由で必要なのね」だけで終わらせて欲しくない。
 それではただ単に、参考書を読んだだけに過ぎない。実際に体験して、勉強して初めて身になるのだ。
 

 書きたいことがありすぎて、全てここに書くことが出来ない。
 全てを記すと、それこそ読者の皆様に固定観念を植え付けそうなのでそろそろこの辺で止めておく。
「もっと知りたい」とか「え? これだけ」と思った人は福島に実際に足を運んでみて欲しい。たぶん、私の言いたいことがわかってもらえると思う。
 最後に今回の旅は様々な人の支援で成り立った。
 私に色々なお話をしてくれた福島の人達、警察の方、ボランティア団体の方。
 安易に私のような人間が「頑張れ」などとは言えないものだが、ここは「頑張ってください」としか良いようがない。
 次私が福島に行くのがいつになるのか未定だが、必ず次は観光で行きたい。取材ではなく、観光で。
 その時まで皆さん頑張ってください。

 読者の皆様、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
 名残惜しいですが、この辺で失礼したいと思います。
 




2012年8月11日 東京で眠りについた


 東京の友人宅に戻ると、テーブルの上に夕食が用意してあった。
「おかえり」
「雨に濡れたわ」
「あー、そういえば降ったね」
「後、東京は人が多すぎ。コミケがあったのかな? 駅、それっぽい人がいたよ」
「だろうよ」
 友人は福島での出来事を深く聞くわけでもなく、黙々と家事を続けていた。
「風呂入れよ。向こうで満足に入ってないだろ」
「いんや、二日とも良か風呂やったばい」
「じゃあ、風呂貸さねえ」
 私と友人は笑った。
 彼は洗濯機も貸してくれ、酒も用意してくれた。
 彼がいなければ間違いなく、旅は成立しなかっただろう。
 洗濯機が回っている間、私と友人は録画していたアニメを見ながら晩ご飯を食べた。
「こうやって、誰かと酒飲むの久しぶりだな」
「そうなの? こっちはいわきの居酒屋で日本酒いただいたけど」
「向こうはどうなの?」
 私はちょっと考えて、「普通かな」と答えた。
「危険な所もあれば、危険じゃない所もある」
「そうか」
「うん、そう」
「まあ、お前が無事ならそれで良かったよ」
「ありがとう」
 結局、彼と福島について話したのはこれだけだった。
 彼は料理がうまいから、福島の野菜を使って楢葉町役場の人達に弁当を届ける事業を二人でやったらどうだろうとか妄想をしながら私は梅酒を飲んだ。
「明日福岡に帰るんだろ?」
「うん」
「俺が仕事から帰ってきても、まだここにいるなよ」
「寝転がって、漫画読んでるかもよ」
 友人は梅酒を飲んだ後、ベッドに横になった。
「明日も仕事だから寝るわ」
 私も横になって、電気を消した。
 明日の朝、少なくとも地震で目を覚ますことはないだろう。

2012年8月11日 広野町復興祈念花火大会


 私は駅近くでつけ麺を食べ、いわき市内を散策した。
 ちょっとした商店街で楽しかったが、あいにく雨が降り始めた。
 私は切符を購入し、駅のホームで電車を待った。震災前はどうだったか知らないが、とにかくいわき駅から広野駅まで行く電車の本数が少ない。夜になれば、尚更だ。もしかしたら福岡から能古島まで行くフェリーの本数の方が多いのではないだろうか。
 雨がやむ気配はなかった。
 雨のせいで、今日の広野町花火大会が中止になるのは嫌だ。
 自然災害のせいで、多くの人が死んだのだ。そろそろ人間の意地を見せなければならない。
 そうは言っても、twitterを見る限り広野町花火大会に賛成している人ばかりではないようだ。津波で流された地区を花火大会の会場にすることに不満を持っている意見も見受けられた。
 究極論ではあるが、これは仕方のないことだと思う。
 こっちに来て色々な人と話してきて感じた。百パーセントの人間の了解を得ることは不可能なのだ。
 私は花火大会を支持する。今回の出来事が、きっと何かの一歩になるだろう。
 電車の中は、意外と人が多かった。
 浴衣姿の女子高生が「広野に行くの初めて」と言っていた。
 彼女は花火大会がきっかけで広野に行くのだ。
 私はtwitterのタイムラインを確認した。広野町botや楢葉町botが町に関連する呟きをリツイートしている。今日はあちこちで祭りがあるようだ。
 雨は尚、車窓を叩き付けた。
 

 広野町に着くと、私はカバンからカメラを出して、レンズを取り付けた。旅の時何かと便利だから持ち歩いているジップロック。私はカメラをジップロックの中に入れ、穴を開けてレンズの先をそこから出した。
 即席の防滴カバーだ。
 余談だが、雨の中撮影しまくってもカメラは壊れなかった。どんな環境でも安心して撮影できるのがNikonの強みだと思う。
 花火大会まで後一時間以上あるのに、お祭り会場は人で賑わっていた。
 私はシャッターを切りながら、何軒か出店を覗いた。
 沖縄の琉球ガラスでアクセサリーを作っている若いカップルのお店。私が荷物を抱えて、雨の中歩き回っていると「こっちで休みなよ」と声をかけてくれた。
 男性は広野町で暮らし、女性は東京で暮らしているらしい。近々、二人は広野町で暮らし始める予定だ。
 警戒禁止区域が解除されても、町に戻って来る若者がいない。そんな中、彼らのような人達は貴重な存在なのだ。
 私はお土産に髪飾りを一つ買った。他にも素敵なアクセサリーがたくさんあったが、全部は買えない。同情で買っても、彼らに失礼だろう。
 私は二人にお礼を言って、お店を後にした。
 新発売のお酒を無料で配布しているお店もあった。棚からぼた餅。ちょうど喉が渇いていたのだ。
 雨の中でもステージで色々な出し物が披露されていた。
 お客さんは適当に屋根のある場所を見つけて、遠目でステージを眺めていた。
 ステージの前には、地元テレビ局なのか、有志による放送委員会なのか、大きなビデオカメラを構えている人がいた。
 フリーのカメラマンらしき人達が数人いる。一人、外国人もいた。
 私はもらった酒を全部飲み干し、再び出店付近を歩いた。
「ちょっと、お兄さん。食べていかない?」
 野菜を販売している出店のおばさんに声をかけられた。
「雨の中、大変でしょう。こっち、屋根があるよ」
「いやー、どうも。助かりました」
 私が荷物を下ろすと、おばさんはキュウリの塩漬けを一本くれた。
 さっき飲み干した酒と一緒に食べれば最高だったのに、惜しいことをした。
 私が財布を取り出そうとすると、
「いいよ。サービス。そのまま齧ってごらん。おいしいよ」
 と言われた。
 私は「ありがとう。いただきます」と言ってキュウリにかぶりついた。
 雨の音に負けじと、シャリっという音が辺りに響いた。
「うまいね。これ」
 おばさんは笑顔で「私たちが作ったから」と言った。
 この店では、広野町農家の人達が畑で栽培した野菜を販売していた。
 震災前、広野町の小学校の給食は地元農家で支えられていた。農家の売り上げの八〇パーセントが給食。給食の献立表には、材料の他に野菜を育てた農家の人の名前が記載されていた。子ども達の話題に野菜の話は欠かせなかった。
「今日は○○さん家の野菜が給食に出たよ」
 放課後、こういう話が各家庭でされていたそうだ。
 町と学校を繋ぐ架け橋が給食だった。農家の人達はさらなる売り上げのために、一丸となって頑張っていた。会議を開き、家庭どうしで連携し、順調に売り上げが伸びていた。
 そこへ地震が来た。
0になった」
 おばさんはそう言った。
「地震で全てが狂った」
 今はどんなに頑張っても風評被害で野菜が売れない。
 土壌の放射線量はもちろん安全。厳しい基準をクリアした農作物だけが市場に出回る。
 しかし栽培にかけたお金より安い値で棚に陳列され、誰も買ってくれない。
 法律により学校給食に福島の野菜を使ってはいけないという決まりもある。
 農家の人はまだ良い方だ。漁師の人達は何も出来ない。海水の水質調査はまだクリアしていないからだ。
「おにいちゃん。新聞社の人だったら、写真撮って新聞に載せてよ」
 私は顔が真っ赤になって、「ごめんね。俺、そこまでの力ないんだよ」と答えた。自分の無力さが、情けなかった。
「どこから来たの?」
「九州の福岡」
「遠い所から来たね。写真撮っていいから、福島の真実を発信してよ。ここにあるのは、食べられる野菜なんだよ」
 私はシャッターを切った後、ニンニクを一袋買った。
「ごめんね。今日、これしか買えないや」
「いいよ。ありがとう」
「また観光で来るよ。その時、たらふく食うから」
 去り際、「こういう私たちをバカにする人もいるけど、何かを始めないと何も進まない」とおばさんが力強く唱えた。
 花火打ち上げが近くなると、ステージ周りに人が集まり始めた。
 雨の中、花火を上げるそうだ。
 花火大会実行委員長の挨拶が終わり、広野町長の挨拶が始まった。
 話題は、もうすぐ始まる小学校の授業。二学期から広野町の小学校が再開するのだ。
 まだ、町には人口五千人の内二千人しか戻ってきていない。残りの三千人は何らかの理由で広野町の外で暮らしている。
 人が戻ってこないと町は盛り上がらない。
 今回の花火が広野町復興に一役買ってくれたら良いのだが。正直、当分難しそうだ。
 私はさっきのカップルや農家の人達を思い浮かべながら、町長の話を聞いていた。
 花火が上がる数十分前、私は広野駅まで戻った。
 残念だが、東京に戻る時間だ。
 いわき行きの電車に乗り込み、海の方を眺め続けた。
 花火が上がる頃、電車がいわき駅に到着するだろう。ネット上では有志によってUstreamで広野町花火大会が放送されていた。
 雨で花火が中止になることはなかった。
 私は雨雲に向かって、ほんのちょっぴり誇らしげに笑った。
 負けっぱなしじゃないんだよ、人間は。






雨にも関わらず、この日、多くの人が集まった。


東日本大震災で亡くなった方々へ、黙祷。



花火大会実行委員長ご挨拶。





広野町長ご挨拶。


広野町の農家の方々が育てている野菜。
放射線量に問題はなく、人体に害はない。
だが、一度こびりついた印象は取れることはなく、風評被害によって販売ができないでいる。
安全なものでも、安心を得るには時間がかかる。

2012年11月7日水曜日

2012年8月11日 交流スペース「ぶらっと」


 この日のことをどのように書こうか随分悩んだ。
 悩んだ結果、可能な限り話せることだけを書こうと決めた。
 私はここに記した意外でもたくさんのお話を聞くことができた。だが、それは「公表しないでくれ」という約束の元私に語ってくれた内容だ。
 なので、ここでは記さない。


 この日の始めに、私は頭痛とともに目が覚めた。
 昨日楢葉町に入ったから放射性物質の影響か、とも一瞬考えたがそんなバカな話はないのである。あの程度の放射線量で急性の症状が現れるはずなどない。
 だいたいどこか外出すると私は体調を崩す体質なのだ。
 クーラーのせいで体が冷えたのかと思い朝風呂などを楽しんだが、いっこうに体調がよくなる気配はない。
 私は朝食をたらふく食って治すことにした。
 疲労か、慣れない環境で緊張していたのか。
 外出先で体調を崩したらとにかく食ってみることだ。体力がなければ万が一の時にも対処できない。
 私はあっさりしたコーヒーを何杯か飲み、荷物をまとめた。まだ体調は優れなかったが、今日が福島を見られる最終日。ぐずぐずするわけにはいかない。
 昨日別れ際にTさんに教えていただいた場所へ向かった。
 いわき市イトーヨーカドーの二階にある「ぶらっと」という交流スペースだ。
 私はここで多くの人に会い、多くの話を聞いた。
 富岡町からいわき市へ避難してきている女性。
 彼女は今の生活を「夢を見ているようだ」と語った。
「ある日突然、危険だから避難してくださいと言われ、いわきの借り入れアパートで暮らし始めた。今でもなぜだかわからない。実感がわかないのよ」
 女性は優しい笑顔でそう言った。
 私が「九州ではいわき市にも入れないと思っている人がたくさんいますよ」と言うと笑われた。
「逆なのにね。震災前より人口がすごい増えた。今、空いてる物件なんてないわよ」

 
 もう一人、若い女性と話した。
 彼女も両親とともにいわき市で避難生活を送っている。
 話題は子どもの話になった。
「子どもを生んで育てたいけど、ちょっと怖いかなー」
 軽い口調でそう言っていたが、私は何も言えなかった。ツイッターで「怖いなぅ」と呟いているのとはわけが違うのだ。
 彼女は時折警戒禁止区域内の実家に帰っている。家の中は311日のまま止まっている。滞在時間は決まっているため、家の掃除も満足に出来ず、家財も持って帰れない。
 実家からいわき市への帰還途中、警察に車を止められ、車へ水をぶっかけられたそうだ。基準値より放射線量の値が高かったらしい。
 彼女は、警戒禁止区域内でのルールを面白おかしく語ってくれた。
 私が昨日目撃したように、警戒禁止区域には自家用車か決められたバスで入る。実家へ入るのは自由だが、冷蔵庫を開けるのは禁止事項らしい。
 その理由がユニークなのである。
 震災から一年以上経っているため、冷蔵庫の中身は全て液状化している。以前、実家に帰った人が興味本位で冷蔵庫を開けると、中の液体が噴き出して、体にかかったそうだ。
 警戒禁止区域から出るときも行きと同じバスに乗る。その液体がかかった人は、服を脱ぐことも出来ず、そのままバスに搭乗した。バスの中は酷い悪臭が充満し、乗り合わせた人の鼻がダリの描いた時計顔負けに曲がったらしい。
 それ以来冷蔵庫を開けることは禁止。
 ぶらっとのメンバーは面白おかしく語っていたが、私は内心焦っていた。
 警戒区域内の想像を絶する状況。
 冷蔵庫の中身が全て液状化なんて、普通の人は経験したことない。せいぜい、タマネギから芽が生えるくらいだ。
 偶然、東電社員の方ともお話をすることも出来た。
 彼は毎日警戒区域内で除染活動をしている。
「こういう人がいるおかげで、私たちは安心して避難生活を送れるんですよ。誰かが嫌な仕事をしてるから。ありがたい。ありがたい」
 最初に私と話してくれた女性が両手を合わせた。
「元々東電の社員だからやってるだけです」
 社員の方は、そう言っていた。
 福島でも東電へのバッシングは酷い。ネットを飛び交う東電を攻撃する発言。私もしたことがある。
 今回の事故の責任は東電に全てある。震災後、東電は何もしていない。
 こういう言葉がtwitter上を飛び交っているのだ。
 だが、どうだろうか。昨日私を案内してくれたT氏の知り合いにも東電の社員がいる。その社員さんも家族とバラバラに暮らしながら除染活動を続けている。
 東電社員だから、そのくらいの仕打ちは当然だろうか?
 原発を作った人間が全面的に悪いのだろうか?
 政府が悪い? 国民が悪い?
 私だって家にいるときはニコニコ動画を見たり、podcastを聞いたりしている。本を印刷する機械も電気で動く。食べ物を育てるのだって電力がいる。
 電気に頼った生活。
 震災から一年以上経った。誰が悪いと問いつめる時期は過ぎたのではないか。被災地は確実に復興へと歩を進めている。
「東電が悪い。原発が悪い」と言い続けているのは被災地以外の私たちだけではないだろうか。
 私は再び頭痛が再発しそうになった。
 一人で考えても、より複雑になるだけだった。


 その後、昼からシルバー体操というものを行った。
 ボランティア活動の一環として行っている。
 私も積極的に参加した。さっきの東電の方は、体操中に腕が上がらなかった。
「おじさんだから」
 そう言って笑っていたが、それだけではないはずだ。
 私だって広野町と楢葉町を見てきた。除染作業は過酷な肉体労働だ。それを毎日行っている。
 筋が痛み、体は悲鳴を上げているのではないだろうか。
 ネットで東電の悪口を言っていた自分が恥ずかしくなった。
 ここの交流スペースでは他にも色々な活動をしている。
 参加者に男性が少ないのが当面の課題らしい。女性に比べて男性は引きこもりがちで、外に出てもパチンコに行くことが多いらしい。
 昨日のTさんの話と繋がった。
 ここは小さな交流スペースだが、避難生活者の未来を支える上で大切な場所なのだ。
 私は荷物をまとめて代表者の方に挨拶をした。
「今から広野に行ってきます」
「頑張ってくださいね」
 と言われた。
 頑張っている人に頑張ってくださいねと言われるのはなんだか気恥ずかしかった。