私は駅近くでつけ麺を食べ、いわき市内を散策した。
ちょっとした商店街で楽しかったが、あいにく雨が降り始めた。
私は切符を購入し、駅のホームで電車を待った。震災前はどうだったか知らないが、とにかくいわき駅から広野駅まで行く電車の本数が少ない。夜になれば、尚更だ。もしかしたら福岡から能古島まで行くフェリーの本数の方が多いのではないだろうか。
雨がやむ気配はなかった。
雨のせいで、今日の広野町花火大会が中止になるのは嫌だ。
自然災害のせいで、多くの人が死んだのだ。そろそろ人間の意地を見せなければならない。
そうは言っても、twitterを見る限り広野町花火大会に賛成している人ばかりではないようだ。津波で流された地区を花火大会の会場にすることに不満を持っている意見も見受けられた。
究極論ではあるが、これは仕方のないことだと思う。
こっちに来て色々な人と話してきて感じた。百パーセントの人間の了解を得ることは不可能なのだ。
私は花火大会を支持する。今回の出来事が、きっと何かの一歩になるだろう。
電車の中は、意外と人が多かった。
浴衣姿の女子高生が「広野に行くの初めて」と言っていた。
彼女は花火大会がきっかけで広野に行くのだ。
私はtwitterのタイムラインを確認した。広野町botや楢葉町botが町に関連する呟きをリツイートしている。今日はあちこちで祭りがあるようだ。
雨は尚、車窓を叩き付けた。
広野町に着くと、私はカバンからカメラを出して、レンズを取り付けた。旅の時何かと便利だから持ち歩いているジップロック。私はカメラをジップロックの中に入れ、穴を開けてレンズの先をそこから出した。
即席の防滴カバーだ。
余談だが、雨の中撮影しまくってもカメラは壊れなかった。どんな環境でも安心して撮影できるのがNikonの強みだと思う。
花火大会まで後一時間以上あるのに、お祭り会場は人で賑わっていた。
私はシャッターを切りながら、何軒か出店を覗いた。
沖縄の琉球ガラスでアクセサリーを作っている若いカップルのお店。私が荷物を抱えて、雨の中歩き回っていると「こっちで休みなよ」と声をかけてくれた。
男性は広野町で暮らし、女性は東京で暮らしているらしい。近々、二人は広野町で暮らし始める予定だ。
警戒禁止区域が解除されても、町に戻って来る若者がいない。そんな中、彼らのような人達は貴重な存在なのだ。
私はお土産に髪飾りを一つ買った。他にも素敵なアクセサリーがたくさんあったが、全部は買えない。同情で買っても、彼らに失礼だろう。
私は二人にお礼を言って、お店を後にした。
新発売のお酒を無料で配布しているお店もあった。棚からぼた餅。ちょうど喉が渇いていたのだ。
雨の中でもステージで色々な出し物が披露されていた。
お客さんは適当に屋根のある場所を見つけて、遠目でステージを眺めていた。
ステージの前には、地元テレビ局なのか、有志による放送委員会なのか、大きなビデオカメラを構えている人がいた。
フリーのカメラマンらしき人達が数人いる。一人、外国人もいた。
私はもらった酒を全部飲み干し、再び出店付近を歩いた。
「ちょっと、お兄さん。食べていかない?」
野菜を販売している出店のおばさんに声をかけられた。
「雨の中、大変でしょう。こっち、屋根があるよ」
「いやー、どうも。助かりました」
私が荷物を下ろすと、おばさんはキュウリの塩漬けを一本くれた。
さっき飲み干した酒と一緒に食べれば最高だったのに、惜しいことをした。
私が財布を取り出そうとすると、
「いいよ。サービス。そのまま齧ってごらん。おいしいよ」
と言われた。
私は「ありがとう。いただきます」と言ってキュウリにかぶりついた。
雨の音に負けじと、シャリっという音が辺りに響いた。
「うまいね。これ」
おばさんは笑顔で「私たちが作ったから」と言った。
この店では、広野町農家の人達が畑で栽培した野菜を販売していた。
震災前、広野町の小学校の給食は地元農家で支えられていた。農家の売り上げの八〇パーセントが給食。給食の献立表には、材料の他に野菜を育てた農家の人の名前が記載されていた。子ども達の話題に野菜の話は欠かせなかった。
「今日は○○さん家の野菜が給食に出たよ」
放課後、こういう話が各家庭でされていたそうだ。
町と学校を繋ぐ架け橋が給食だった。農家の人達はさらなる売り上げのために、一丸となって頑張っていた。会議を開き、家庭どうしで連携し、順調に売り上げが伸びていた。
そこへ地震が来た。
「0になった」
おばさんはそう言った。
「地震で全てが狂った」
今はどんなに頑張っても風評被害で野菜が売れない。
土壌の放射線量はもちろん安全。厳しい基準をクリアした農作物だけが市場に出回る。
しかし栽培にかけたお金より安い値で棚に陳列され、誰も買ってくれない。
法律により学校給食に福島の野菜を使ってはいけないという決まりもある。
農家の人はまだ良い方だ。漁師の人達は何も出来ない。海水の水質調査はまだクリアしていないからだ。
「おにいちゃん。新聞社の人だったら、写真撮って新聞に載せてよ」
私は顔が真っ赤になって、「ごめんね。俺、そこまでの力ないんだよ」と答えた。自分の無力さが、情けなかった。
「どこから来たの?」
「九州の福岡」
「遠い所から来たね。写真撮っていいから、福島の真実を発信してよ。ここにあるのは、食べられる野菜なんだよ」
私はシャッターを切った後、ニンニクを一袋買った。
「ごめんね。今日、これしか買えないや」
「いいよ。ありがとう」
「また観光で来るよ。その時、たらふく食うから」
去り際、「こういう私たちをバカにする人もいるけど、何かを始めないと何も進まない」とおばさんが力強く唱えた。
花火打ち上げが近くなると、ステージ周りに人が集まり始めた。
雨の中、花火を上げるそうだ。
花火大会実行委員長の挨拶が終わり、広野町長の挨拶が始まった。
話題は、もうすぐ始まる小学校の授業。二学期から広野町の小学校が再開するのだ。
まだ、町には人口五千人の内二千人しか戻ってきていない。残りの三千人は何らかの理由で広野町の外で暮らしている。
人が戻ってこないと町は盛り上がらない。
今回の花火が広野町復興に一役買ってくれたら良いのだが。正直、当分難しそうだ。
私はさっきのカップルや農家の人達を思い浮かべながら、町長の話を聞いていた。
花火が上がる数十分前、私は広野駅まで戻った。
残念だが、東京に戻る時間だ。
いわき行きの電車に乗り込み、海の方を眺め続けた。
花火が上がる頃、電車がいわき駅に到着するだろう。ネット上では有志によってUstreamで広野町花火大会が放送されていた。
雨で花火が中止になることはなかった。
私は雨雲に向かって、ほんのちょっぴり誇らしげに笑った。
負けっぱなしじゃないんだよ、人間は。
雨にも関わらず、この日、多くの人が集まった。
東日本大震災で亡くなった方々へ、黙祷。
花火大会実行委員長ご挨拶。
広野町長ご挨拶。
広野町の農家の方々が育てている野菜。
放射線量に問題はなく、人体に害はない。
だが、一度こびりついた印象は取れることはなく、風評被害によって販売ができないでいる。
安全なものでも、安心を得るには時間がかかる。