2012年10月26日金曜日

2012年8月10日 警戒禁止区域解除当日の楢葉町


 無理を言って楢葉町に連れて行ってもらった。
「福岡からここまで来たんなら、見ておくべきですよ」というのがT氏の言葉だ。
 昨日まであった広野町と楢葉町の間のバリケードはなくなっていた。
 Twitterによると許可がないと入れなかったはずだが、地元の方がいるからか、それとも夕方だからか、特に楢葉町の手前で車が呼び止められることはなかった。
 福島に旅立つ前、ネットで警戒禁止区域の中の写真は何枚か見ていた。掲示板では「時が止まっている」というコメントが書き込まれていた。
 が、安易にそういう言葉で締めくくっていいものなのだろうか。
 実際に無人の町を目にすると、感想を簡潔に語れないのが正直な所だ。
 道路にはひびが残っていて、電柱も傾いている。店や看板は駐車場や道路に無造作に倒れ込んでいる。
 道路のひびの隙間から草が生えていた。家の屋根まで届きそうな背の高さだ。
 車で楢葉町に入った時から酸素濃度が高くなったような気がした。気がしただけだと思う。人のいない町はそういう錯覚を起こさせる。
 私は車の中でガイガーカウンターの電源を入れた。
 車内なのに、0.81μSv/hという数字が表示された。
 私は唾を飲んだ。
 今まで歩いて来た町とはわけが違うのだ。
 車窓の外はずっと草原が続いている。どこまで走っても緑の大地。
「これ、元は田んぼだったんですよ。震災から一年以上放置されて、この有様です」
 私は言葉が出なかった。
 この田んぼを蘇らせることはもう出来ないだろう。
 町役場に人がいるようだった。
「除染は役場なんかを重点的に行います。そうしないと町が機能しないんです」
「私なんかからすると、こんな線量が高い町を入場可能することはおかしいと思ってしまいます」
「外部の方はそう思うでしょうね。でも、こうやって警戒禁止区域が解除されて、業者が除染活動をできるようになって初めて町が復興に向かえるんです」
「私たちは、防護服を着た自衛隊が除染活動をしてて。除染が終わったら警戒禁止区域が解除されるんだと思ってました」
「自衛隊はもういませんよ。除染活動をやってるのは地元企業の社員さんや東電の社員さんです」
「民間の方が、行ってるんですね。てっきり政府の組織がやってるのかと」
「震災直後は自衛隊もたくさんいましたけど、今はいないかな」
 対向車線を車が通り過ぎていった。
「除染活動が終わったんでしょうね。夕方だから」
 私は対向車の中を見た。
 防護服を着た人が乗っていた。戦争みたいだ。心底、そう思った。
 楢葉町と富岡町の境界線にバリケードが敷いてあった。警察車両が数台停まっている。
 私たちは道路の脇に車を停め、バリケードまで歩いていった。
 富岡町方面から車が何台も出て来ている。
 ガイガーカウンターの数値は1.29μSv/hを示している。今回の旅で最高の値だ。
「これが富岡町だと家の中でも3とか4を示すんですよ」
 T氏はそう語った。
 私がバリケードに向けてカメラを構えると、マスクをした警官が近づいて来た。
「報道の方ですか?」
 私は一瞬返答に困ったが、警察官の方から「フリーの方?」と訊かれ「そうだ」と答えた。
 T氏が地元の人間だと答えると、警官は私たちを交互に見た後、ニッコリ笑った。
「撮影はマズいですかね?」
「いえいえ。結構ですよ。どちらから来られたんですか?」
 警官は意外と気さくに話してくれた。
「福岡です。九州の福岡から」
「それは、また遠い所からご苦労様です」
「お兄さんはどこの県警の方?」とT氏が尋ねると、警官は「三重県警だ」と答えた。
 全国からこうやって人材が集まっているのだ。彼らは二週間交替でバリケードを守る仕事をしに来ているらしい。
 T氏はバリケードのある場所とない場所をしきりに警官に確認していた。地元の人間は、なるべく自分の家に帰りたい。やはり気になるのだろう。
 警官が言うには、どんなに小さな道でもバリケードはしてあるそうだ。
 私は写真を何枚か撮り、T氏とともに警官と話した。
 話している間にも除染活動を終えた車両がバリケードを通過していく。囚人を護送するような大きなバスの中で、防護服を着た人達が座っていた。
 私たちは警官に挨拶をしてバリケードを後にした。
 再び草原を眺めながらひび割れた道路を走る。
 一見大丈夫そうな民家も、扉を開けると酷い有様らしい。
 物盗りの被害、動物に荒らされた跡、腐った畳や壁。カビが酷くて家の中でマスク無しでは呼吸できないというではないか。
 T氏はあえて遠回りをしてくれた。
「大手(報道)の人もここまで見てないでしょ」
 無人の民家の間を車で通り過ぎていく。
 警察の車が常に巡回していると聞いていたが、楢葉町では一台しか見ていない。もっと数十メートルおきに事情聴取をされるのかと思ったが、全然そんなことはなかった。
「これはマズいな」
 T氏は呟いた。そうなのだ。防犯の意味でよろしくない。もっと巡回を徹底しないと、物盗りが横行してしまう。
 車は踏切で停まった。
 あまりの非日常の光景に私とT氏は笑ってしまった。
 草で覆われた線路。ツタが絡み付いた遮断機。
 信号には電気が流れていたが、踏切には送電されてないようだ。
 私たちは車から降りて撮影をした。
 熱で収縮を何度も繰り返した線路は使い物にならないだろう。鉄道を再度通すためには全面的な草取りをしなければならない。
 私たちは笑い続けた。言葉にできないから。こんな光景を見せられて、一体何を呟けと言うのだ。


 閉鎖中の木戸駅にたどり着いた。
 車から出ると酸素の濃い空気が肺に入った。
 数歩歩いただけで、服に虫が付く。
 ジャングルの中を歩いているみたいだ。
 駅舎の中に動物用のエサが置いてあった。野生化したペット向けに置かれたエサらしい。ボランティアの方が置いている。食べ物がないと、動物は民家を荒らしてしまう。
 T氏はホームに設置している切符箱を開けようとしていた。
311日の切符が入ってるかもしれない」
 なるほど、あの日以降切符を入れる人はいないし、切符自体発行されてないはずだ。311日の切符が出てくれば、それはちょっとした遺跡である。
 だが、出せなかった。さすがに鍵がしてある頑丈な箱だった。壊せば、器物損壊になる。
 駅の駐輪場には自転車が数台停めたままだった。
311日、高校生とかがここに自転車を停めて、そのまま学校に行って、その先で地震に遭った。あの自転車は震災の時からずっと停まってるんです。持ち主が帰ってこないから」
 私はT氏の話を無言で聞いた。
 この町の時は確実に311日で止まっている。それだけではない。草木は伸び放題で、昆虫が当たり前のように飛び回る空間。震災から雨だって降っただろう。
 人間とは違う時がこの町では流れているのだ。
 時が止まった町ではない。
 人類の時は、とっくに忘れ去られていた。



一面に広がる草原も、
元は田んぼだった所。


草は伸び放題。
震災前は、「牛に注意」看板があり、
車は牛を避けながら走っていた。
今はそんな面影は全然ない。
除染用の車両が道路を行き来している。




楢葉町と富岡町の間のバリケード。
この先は許可がないと入ることは出来ない。
撮影にも厳しいのかと思ったが、
意外とすんなり撮影を許可してくれた。


ビニールハウスもご覧の有様。
人の手が加えられない畑はこうも荒れ放題になってしまうのか。






踏切で撮影した写真。





3月11日から時が止まっている木戸駅。
駅舎の中には野生化したペット向けのエサが置いてある。




2012年10月20日土曜日

2012年8月10日 避難生活者を取り囲む問題


「ここだけ、町がそのままでしょ?」
 T氏に言われて私は移動中の車から外を覗いた。
 豊間の震災跡地から数分移動しただけなのに無傷の状態の町が残っている。
「地形の関係です。ここは津波の通り道にはならなかったんです」
 振り向けば、さっきまでいた豊間の町の跡が見える。
 ほんの数十メートルの違いで、津波の被害を受けるか受けないかの運命が決まってしまった。
 旅館で女将さんが、運で生き死にが決まったと言っていたのを思い出した。
 

 小名浜への移動中、私はT氏から様々な話を聞いた。
 避難生活を余儀なくされているほとんどの人が現在家族バラバラの状態で暮らしている。家族を親戚の家に預けても、家の主は自分の家を守らなければいけない。福島県内で仕事をしつつ、時々警戒禁止区域内の家に掃除に行く主がほとんどらしい。
 また、福島に残っている者と福島を去っている者との間に軋轢がある。福島を去ると、「自分の家を見捨てて恥ずかしくないのか」と言われ、福島に残ると「あんな危険なところで暮らしておかしいんじゃないのか」という目で見られる。
「無駄な争いですよ。そんな争いをしてると、復興が立ち止まってしまう」
 T氏が呟いた言葉だった。
 避難生活者は国から援助金をもらうことが出来る。
 これがやっかいで、大阪府生活保護不正受給のように、援助金をもらうだけもらって毎日パチンコ三昧の人も少なからずいるそうだ。
「避難生活をしている人のほとんどが仕事をしているし、仕事に就いてない人は次の仕事を探そうと必死です。一部の人がそうやって遊んで暮らしているせいで、避難生活者全員が世間から冷たい目で見られます」
「なんだかそれ、腹が立ちますね」
「腹が立ちますよ。援助金っていうのは働けない人のために出るものなんです。震災のせいで避難生活を余儀なくされたのは健康な人だけじゃないんです。お年寄りや障害者は新しい町へ引っ越すことは出来てもなかなか仕事を見つけることは出来ない。元々自営業だった人は、代々継いできた店を手放して避難生活を送ってるんです。そういう人は今の生活が精神的に苦痛なんです。酷いうつ病になる人もいる」
「実は私もうつ病で入院してたことがあるんです。こんな言い方は失礼かもしれませんが、うつ病の辛さはわかります」
「まだわからないことだらけで、決まってないことだらけなんです。先が全然わからないし、生活もがらりと変わってしまったし、家族はバラバラだしで、避難生活を送ってる人は精神的に参ってる人がたくさんいます。俺なんかは、まだいいほうですよ」
 私は気になっていることがあったので、訊いてみた。
「福岡を出る前に、『福島には行くな。見物人だと思われるぞ』とさんざん言われました。私はもちろん遊びでここに来たわけではありませんが、こうして色々お話を伺うのは嫌じゃありませんか」
「そんなことはありませんよ」
 T氏は意外にも即答した。
「傾聴ボランティアってのがあるくらいですから。震災の話や、悩みを話したい人はいっぱいいると思いますよ。全員が全員話したいわけじゃないでしょうが、ニュースやネットで発言しているジャーナリストの言うことはこっちの実情を全然伝えてませんから」
「やっぱり伝えきれてませんか?」
「被爆なぅは腹が立ちました」
 私は苦笑した。
「福島を食い物にしてるやつらはいっぱいいるんです。その一つが、泥棒です。警戒禁止区域内に入って空き家から家財道具や金品を一式持っていくんです」
「ニュースで見たことあります。やっぱり多いんですか?」
「多いですよ。俺らが今生活しているアパートやマンションは部屋が狭いでしょう? だから家財道具を全部持って行きたくても持って来れないんです。警戒禁止区域に入るのも許可がいるから毎日家の様子を見に行けない。空き巣の連中はその弱点をついてるんですよ」
 私は自分が家に帰ったら、家具もパソコンも金品類も全てなくなっているシーンを想像した。
 ぞっとした。
「悪魔ですよ! あいつらは!! 人の血が流れてない!!!」
 温厚に話していたT氏の声がこの時だけ殺気立った。


 小名浜港はとても静かなところだった。
 海の向こうに見える水族館も津波の被害を受けたらしい。
 今では無事に復興し、営業を再開している。
「小名浜港はいわき駅でいただいた観光パンフレットに書いていました」
 T氏は苦笑いをして、
「今は、あんまり目玉はないかな」と呟いた。
「放射性物質の影響で漁業は禁止。港もご覧の通り閉鎖状態。時々水質調査のスタッフがやって来て海水のサンプルを持って帰ってますよ。昔は近辺のレストランで地元の魚が食べられたんですけどね」
 港が妙に静かな原因は、それだ。
「漁業も完全に禁止されてるんじゃなくて、遠洋漁業はしてもいいんです。カツオとかはそう」
 私は昨晩いただいたカツオのたたきを思い出した。あれは、福島の漁師さんが獲って来たものなのだろうか。だとしたら嬉しい。
 海沿いを歩いた。
 妙な気分だった。海なのに海と思えない不思議な気分。放射性物質が含まれていると考えるだけで、海に対して嫌悪を抱いてしまう。
 それと反して、十人くらいの釣り人もいた。
「釣っても良いんですか?」
 私が訊くと、T氏は答えてくれた。
「正直、そこまで気にしてる人はいないんですよ。食べる人は食べる。彼らも、釣って帰って普通に食べると思いますよ」
「じゃあ、そんなに神経質になってないのが実情ですか?」
「全員じゃないですよ。特にお母さんは食べ物には神経質みたいですね。内陸部の田舎は山が近いんですけど、おじいちゃんおばあちゃんは山菜を採って食べたりしてます。だけど、孫には食べさせない」
「ちょっと驚きました。もっと食材を厳選して生活してるのかと思ってましたから」
「ないない。お店でも平気で刺身とか食べるますよ。そもそも地元産って書かれてるのが、本当に地元産かもわかんないしね」
 T氏は皮肉っぽく笑った。
「海外メディアには、『日本人全員がガイガーカウンターを持ってスーパーの野菜や肉の放射線量を測って買い物をする』って報じてるところもあるらしいですよ」
「そんなわけないじゃん。そんな人、見たことないよ」
 二人は大声で笑った。


 車で大熊町の方が生活している避難所に行った。
 簡素なバンガローテントのような家が何軒か集合している場所だった。洗濯物が干してあったが、ここもあまり活気がない場所だった。
「ここはかなり良いところですね。プレハブの家のところもありますよ。震災後慌てて避難所を作ったんですけど、当初は機能が充実してなかったんです。窓も二重窓じゃないから寒くてね。生活者の意見を聞いて、徐々に窓を改造したり、エアコンを付けたりしたんです」
 それでも、住民に対する精神的な苦痛は計り知れない。
「元々田舎の土地の大きな家に住んでた人が多いでしょ。ある日突然地震に遭って、狭い家で暮らすようになった。辛いと思うよ」
 T氏はそう語った。
 それは、彼自身が避難生活を強いられているからわかることなのかもしれない。
 一つの集落のようになっている避難所。住民と思われる子どもが一人、避難所を取り囲むガードレールに座ってゲームをしていた。

********************追記********************


2012年10月10日水曜日

2012年8月10日 豊間


 車で豊間の海岸をずっと走った。
 何もなかった。
 あったはずの家や工場が根こそぎなかった。
 車を停めてもらい、私とTさんは津波で流された町の中を歩いた。
「そこが、工場があったところだよ」
 T氏は何もない所を指差した。
 白い壁や床にカラフルな絵が描かれていた。
 豊間はいわきで一番津波の被害が酷かった場所だそうだ。
 瓦礫の間からいくつものひまわりが顔を出していた。
 震災でボロボロになった土地にひまわりを植えるプロジェクトがあると聞いたことがある。
 再び車に乗り、中学校の前に移動した。
 学校の校庭やプールに撤去された瓦礫が集められていた。私は久之浜で聞いた話を思い出した。瓦礫の受け入れ先がなければ、いつまで経っても瓦礫は被災地に放置されたままになる。
 小学生の頃、私の住んでいる町が大洪水に見舞われたことがある。家が流され、友達は避難所で生活をした。
 水害に見舞われた場所は通常ものすごい異臭がする。トイレが流されたり、木材が腐敗したりしているからだ。
 豊間の中学校の入り口には立ち入り禁止の看板が置いてあった。
 学校がボロボロで崩落の恐れがあるからか、タバコの火なんかが原因で火事が起こるからか理由はわからない。
 ただ、瓦礫を放置したままにすると、今度は衛生面でトラブルが発生するだろう。瓦礫をどうにかしなければ、被災地を見捨てることになる。
 Podcastの学問ノススメで林真理子さんが言っていた。
「被災地を救おうという言葉と瓦礫受け入れ反対という言葉は同じ人の口から発せられている」







 
 海沿いの壁にスプレー缶で絵を描いている人がいた。
 彼はボランティアで訪れているらしい。
 瓦礫をキャンバスに変えるプロジェクト。
 小学生やボランティア団体の人達が交替で描いているそうだ。
 私は、ふと、グラフィティライターの同級生を思い出した。
「そろそろ行こうか」
 私はT氏の車に乗り込んだ。











いわきの人なら絶対に知っていると言われている豊間のコンビニ。
震災後すぐに仮設コンビニを作って地元の人を支え続けた。


豊間のコンビニのすぐ近くにあるゴジラの置物。
実は売り物。
持ち主の方と交渉すれば、有料(うまくいけば無料?)で譲り受けることが出来る。